プラチナだろうと溶かしてみせる

DDジャニオタが異国の地で突如KAT-TUNにはまった話

さよなら またいつか 会うまで

 

 

 

自担がジャニーズ事務所を辞めた。

大好きだった関西ジャニーズJr.の彼は、"一般人"になってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

2018年1月27日夜6時すぎ(現地時間)、私はたまたま大学の非オタの友人と旅行先のウィーンにいた。

セルフ式のレストランで注文を待ちながら何気なくTwitterを開くと、仲のいいオタ友が何やら自担について不穏なツイートをしていた。嫌な予感がしてTwitterで自担の名前で検索すると、先頭に出てきたのが彼自身のアカウント。そこからは動悸がおさまらず、手足は文字通りガタガタと震え出し、ここがウィーンでなければ、異国の地でなければ、膝から崩れ落ちるところだった。よほど顔色がやばかったのか、先に注文を終えた友人から、「大丈夫?どうかした?」と聞かれ、「自担が辞めちゃった」と答えるのが精一杯だった気がする。

 

 

 

 

 

思い返せば2年前の春、2016年4月2日、松竹座で私は転げ落ちるように自担に降りた。当時自担はWESTのツアーバックにもついていたが、その時はまるで関心もなく、ただアクロバットがすごい子、程度の認識だった。

しかし、2日の公演中に和メドレーで扇子を振りかざしドヤ顔する彼を見てまさに雷に打たれたかのような衝撃を受け、公演後に御堂筋を歩きながら一緒に入っていた石澤担の友人に担降り宣言したことを昨日のことのように覚えている。

 

 

 

初めてセリフをもらえた8月のAnotherでは、コントガチャ自担初登場回を引き当てた。大好きなAnother Tomorrowを歌う自担が見れて本当に幸せだった。

10月のジャニフワでは、わらわらポジだったものの、先輩たちに混ざって同じくくりからは一人だけアクロバット選抜に選ばれたのが本当にうれしかった。

12月のクリパは、二人の花で元担とのバーチャル共演を果たしてえもさに死に、ラブシチュでシンメ厨は墓を立て、ラストの地獄メドレーで大好きな自担のダンスを堪能して、と何から何まで最高だった。

17年3月の春松竹は、確かに思うところは色々とあったけど、Water Dropの自担が最高すぎたからもはやなんでもよかった。自担のバラになりたい〜〜とか散々わめいてたのももはや懐かしい。

 

 

 

風向きが変わったのが去年の夏だった。

5月31日、毎年恒例夏の松竹座公演のポスターが公開された。

そこに自担はいなかった。さらにショックなことに、自担と同期ではあるが自担より年下で言い方は悪いが序列は正直格下だった子たちはポスターにいた。ただただショックだった。そしてなんとなく嫌な予感がした。さらに追い討ちをかけるように、

"DKたちは夏の少年たちには出ない。この夏の仕事は関ジャニ∞のツアーバックだ。"

こんな噂がまことしやかに囁かれ、半信半疑のまま関ジャニ∞のツアーのチケットを確保したのがツアー開始の直前のこと。

7月15日、やっぱり自担は札幌にいた。噂は事実だった。留学前最後に大好きな自担を大好きな松竹座で見られないことが確定した虚無感絶望感を今でも覚えている。

in大阪の収録も不在でますますテンションが下がる一方で、突然シンメでテレビ誌の連載に登場したり関ジュラジオに初登場したりと干されてんだか推されてんだかなんだかよくわかんない状態に突入して混迷を極めていた7月〜8月。

 

 

 

そして迎えた8月16日。ジャム東京ドーム最終公演。

これが留学前最後の現場だった。

この日のためだけに公演前にかなり奮発して新しい双眼鏡を買って、たくさんの思い出が詰まった水道橋へと向かった。

元担をぼんやりと眺めながら前半を終えたところで自担が登場した。そこからは本当にあっという間だった。夏の自担はいつもと場所が違えど変わらずに最高だった。

東京ドームのメインステージ0番でアクロバットの大技をきめる自担は贔屓目なしに世界で一番輝いていた。本当に本当にかっこよかった。きっとドームにいた多くのオタクたちは関ジャニ∞のファンで、言ってしまえばアウェーだったけど、あの瞬間は間違いなく55000人の視線は自担に向いていたし、自担がアクロバットをきめた瞬間に上がった決して小さくない歓声は間違いなく自担への感嘆と賞賛の表れだった。うれしかった。自担のことが本当に誇らしかった。

そして本編最後の曲、今。双眼鏡でバックの自担を見ていたら元担が写り込んできた。2人とも笑顔だった。私のおたく人生の始まりである元担と大好きな自担だけの世界だった。おたくを始めた7年前と"今"が繋がった瞬間だった。

 

 

 

 

 

"さよなら またいつか 会うまで"

この歌詞は自分にはあまりにも重すぎる歌詞だった。高校3年生の自担には何が起きてもおかしくないと思っていたし、正直自分が帰国するまでジャニーズを続けているという確信は持てなかった。でも信じたかったし信じてた。帰国した後、8月には今度こそ松竹座で会えると信じてた。一度松竹を干されたらまたあのステージに戻るのは厳しいとは薄々感じていたし、モチベだだ下がりの中自チケで入った少年たちでじわじわと世代交代が進みつつあるのを実感した。でも希望は捨てずにいた。雑誌にはコンスタントに出ていたことが心の拠り所だった。こんな状況だからクリパにいないのも想定内だったし、あけおめにいなかった理由もパリで云々と雑誌でしゃべってたから正直油断してた。なんならパリで遭遇できちゃうかな〜くらいに考えてた。のんきすぎた。

 

 

 

 

 

約1年10ヶ月。短い間だったけれど、あなたの担当を名乗ってあなたを追いかけた時間は本当に楽しかったです。悔しい思いもたくさんしたしよくない噂を耳にすることも少なからずあったけれど、ステージにいるあなたはいつも輝いていて、公演が終わるたびにあなたを応援してて本当によかったと毎回しみじみ感じていました。本心はわからないしこれは一人のオタクの偏りすぎた見方に過ぎないけれど、少なくとも私にはあなたがステージを誰よりも楽しんでいるように見えていたし、そんなあなたが私は大好きでした。2週間経って現実をようやく受け入れられるようになったので、今こんな文章を書いています。長文乱文ごめんなさい。これがあなたへの最後のファンレターです。

 

 

 

 

 

 

 

毛利柊和くん

今まで本当にありがとうございました。

大好きでした。

さようなら。